駅のホームで電車を待っていると線路が俺を呼んでいるような気がして気がつくと黄色い線をはみ出して線路を凝視している。それと同じようなことはたくさんある。夜、家に帰る途中、東京都道158号小山乞田線を走る車の光が邪魔をして昔の失敗を思い出す。それは家でネットをしている時でも同じで、ディスプレイの前になぜか置いてある画鋲が目に入り、この画鋲で目を付いたら痛いだろうな、と意味もなく煩悶してしまう。
さっき会ったひとは今何をしているだろうか、といろいろ想像していると僕はいつの間にかおじいさんになって孫の世話をしている夢を見ている。一番最悪な夢は例えば僕が誰かになって、そいつがまた別の誰かと情事に耽っているようなそれであり、そのような夢は往々にして覚醒した後も僕を悩ませるのだ。
見たままの現実を僕が見るのは大変難しいように思われる。でも誰かにとっての現実は僕にとって見たままの現実であるように思う。
岡崎京子の「リバーズエッジ」において印象的なのは風景のカットで、それはいつでも遠くの風景だ。
リカのキス。盛り上がりも下がりもなくてひたすらに単調な、でも中毒性のあるトラックがもう本当にやる気のない声と重なると1995年にタイムスリップした気分になって、それってたぶんスチャダラパーの「サマージャム95」なんじゃないかって勘ぐるとその実プロデュースはクボタタケシで、幸福感でいっぱいになるとタバコが吸いたくなったのでシケモクをすうがまずい、やる気がなくなるとキミドリの自己嫌悪をitunesが選んでくれる。誰も気がつかない音楽というのはなくて、いつも誰かが僕が気がつく前に気が付いていて、だから知らない音楽はないのです。でも大体の音楽がトイレットペーパーのようにことごとく同じ目的のためのものであり、消費されていく。一年前の音楽とは何だったか。そもそも一年前の音楽なんて存在するのか。誰かが怒っている。もう我慢の限界だ。
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