2010年5月30日日曜日

カミュなんて知らない

勉強は何一つ片付かず、音楽をずっときいていた。やべぇやべぇ。

カミュなんて知らない(2005年、柳町光男)

冒頭のオープニングシーンの長回し、ロバート・アルトマンの「プレイヤー」、相米慎二の「ションベンライダー」など、同じ形式の映画を連想していると、不意に登場人物の口からそれらの映画が語られる。
映画はオマージュによって始まる。教授の背後にはアッシェンバッハが、白い背広を着て立っている。または黒木メイサと、教授の切り返しはその不自然さによって際立つ。映画に制限はない。我々の頭の中には、無数の映像の断片があり、映画を観るとき、または作るとき、それらを参照してある主観的な評価を決定する。それらが暗黙の鎖となって我々は映画に対してある断定を下したくなるんだが、そんな断定は愚の骨頂だ。「映画とは何か」とは常に現在進行形の形で持って語られなければならないのではないか。

2010年5月23日日曜日

思い出2

johnny thundersの「サッドヴァケイション」をきいている。
一昨年の夏も間近の7月あたりに青山真治の「サッドヴァケイション」を見た。
オダギリジョーが飯を食っているところと、車が橋を渡っているところしか覚えていない。
サッドヴァケイションが流れていて、いい曲だなと思った。
その頃は僕の住まいは調布で、多摩川の近くで、サッドヴァケイションのような橋がかかっていた。
僕は車でなく自転車でその橋を渡ってブックオフやブックスーパーいとうに漫画を立ち読みしに行っていた。
不毛で、なんとなく焦燥感のつきまとう一日を過ごしていた。
その感情は僕を映画サークルの部室に縛り付けていた。
そして何もしない一日を、映画に昇華するのだった。

2010年5月16日日曜日

思い出

俺はこのブログ、kino部員くらいしかみてないもんだろうと思って適当に書いていた。インターネッツだから不特定多数の人々に見られる可能性があるのは分かっていたが、その不特定多数に自分の知り合いが属する可能性は極めて低いと侮っていた。インターネッツを侮っていた!

ボードレールというフランスの詩人がいて彼は「悪の華」という詩集を書いているのだが、僕は高校生の時によく読んでいたので思い出深い詩集だ。大学生になって調布に住み始めてからも、ちょくちょくその詩集を読んでいた、調布駅近くの「シャノアール」という名の喫茶店で「旅へのいざない」などを堀口大學の訳で読んでいた。東京は調布の「黒猫」という名の喫茶店で、「黒猫」を書いたエドガー・アラン・ポーの影響を受けたボードレールの詩を読むというのは、なかなかちぐはぐな体験で読後のもやもやを果たして僕は「シャノアール」のそのまた隣のゲームセンターによって開放していたものだった。

そしてまた、季節はめぐり僕はある音楽を耳にすることによってまたそのような体験を想起することになるのだが、果たしてそれはRuh Whiteの「Flowers of evil」という名の音楽だったのです。

Ruth White - Flowers of evil

抑揚の全く無いボードレールの詩の英訳の朗読と、電子音が延々と続く不穏な楽曲群。名盤。といっても、ボードレールの詩は後景へと堕し、Ruth Whiteの音楽が全面に出ている。
とくに、「Lover's Wine」は素晴らしい。NWWばりのピュルピュル音によってはじまり、不自然に増幅された所為で音の割れた朗読が始まるとその音は小さくなる。そして振動しながらずーっとピュルピュル鳴っている。

「ロングバケイション」

HOSOYA先輩から薦めていただいた大滝栄詠一の「ロングバケイション」を何度リピート再生しただろうか。もう、よく分からない。

僕は今、新歓合宿に向けて脚本の見直しをしています。先ほど、洗濯して干していたベッドのシーツがどこかに飛ばされて行きました。今日はいいお天気で風が強いです。

「ロングバケイション」の中には「ああ、これかぁ」というものがたくさんあります。CMや町で流れているようなBGMで聴いたことがあるぞってやつが多い。とても親しみやすい。
最近だと「君は天然色」がTVで流れているような気がするけれど、どうでしょうね。勘違いでしょうか。

僕は小田和正とシカゴとTOTOとアール・クルーしか愛さない偏屈な父親のもとで育ったのですが、やっぱりその影響でしょうか。純粋に、バラードに弱い気がします。困ったものです。

でも、やっぱり好きなものは好きだから仕方がありません。いつまでも「ロングバケイション」を聴きながら、ぬるくてにごった大して美味くもない紅茶を飲みながら、窓から入ってくる春の風を浴びながら、パソコンに向って脚本を眺めていれば、それでいいんじゃないかと思ったりもします。もう僕はリア充です。

とか言いながら、BLUE HERBも最高でした。HOSOYAさん、ありがとうございます。

今度、かせきさいだぁ≡を聴きながら、梶井基次郎の「檸檬」を読みながら、三ツ矢サイダーを飲んでみようと思います。
いや、それはかせきさいだぁ≡にも梶井基次郎にも三ツ矢サイダーにも失礼か。
ちなみに僕も「檸檬」は素晴らしいと思いました。

すいません。こんな感じです。

2010年5月14日金曜日

モンテ・ヘルマン新作情報!

我がマスタピースである「断絶」「コックファイター」を監督した巨匠モンテ・ヘルマンが新作を撮るらしいので、今から楽しみでしょうがないです。
http://www.nytimes.com/2010/05/16/movies/16hellman.html

モンテ・ヘルマンの映画で最も有名な作品は、[断絶]であろう。2台の車がワシントンDCまで競争する、ただそれだけの、極めて単純なストーリー。だからこそ、我々は路上で孤独にひた走る男の表情を注視するほかない。「ヴァニシング・ポイント」「イージーライダー」など、「断絶」が撮影された時代には車映画は割とよくとられていた。その中にあって正しくハードコアな映画だ。ロードと空が世界を二分してその中間を車はひた走る。ジャック・ケルアックの「路上」のような狂騒も、「ヴァニシングポイント」のヒロイズムもすべて削ぎ落としいったい「断絶」の物語では何が語られているのか。それは、映画でなければ成り立たない物語で、つまり映画自体を物語っている。そういえばあいつ、「イタリア旅行」を撮っていた頃のロッセリーニはこんなふうに言ってなかったか?それともJLGだったっけ?「映画は男と女と車さえあれば完成する」って。JLGの「勝手にしやがれ」も、「フォンス、アルフォンス」だし、イエジィ・スコリモフスキの「出発」も車なんですよ。
「コックファイター」も同じく何も話さない映画だ。主人公がまず話さないし。何よりも物語は観客を無視している。ニワトリの喧嘩を誰が見るのだ。しかし、我々はまずモンテ・ヘルマンだから見ざるを得ないのだ。そして、ネストール・アルメンドロスだからこそ。言葉が内実を担当するとすれば、主人公はなんの内実も示さない必要のない人間だが、映画に関する限りその状態は突破することが出来る。フィルムに焼き付けられた像はそれ自体が言葉だ。複数の映像の集合が俺達の頭の中でキュビズム的な様相を呈し、そして考えの中で物語は形づくられる。映像が文なのではなく、映像によって我々が言葉と言葉を結合させ文を、物語を作り出しているのだ。理解だ。もっとも重要なのは物語を理解することではなく、映像と映像のつながりを、映画を理解することだ。
「映画は物語る」という至極基本的なことを、あまりにも無反省に受け入れておられる人間が多すぎる。
いえーい俺もその一人です。



2010年5月7日金曜日

げげげっ、現代社会

俺のラップが微妙に人気だったので、リリックあげときます。

Title:げげげっ、現代社会
Track:A Tribe Called Quest - Electric Relaxation

MC MC microphone miyazima yo,yo,yo,
中堅担う堅実ラッパー ポテチ朝5時毎日マックでマルボロ ワンカートン
赤吸う赤狩りにあう 中間地帯爆撃 地下活動活発 覚えとけ、
俺がmiyazima

Yo,同志たち、一日にして敵同士
学生ホールレペゼン 文化部最深部 三階 支配する大学
ファックアウト教務課学生課 なにかあったら 俺らの出番
聞け ドープネス スルーするポップチューン いつも聞くのはハーコーなフリースタイル
虚ろな目をしてうろつく午前三時 いつの間にか時間超過
大学5年目 モラトリアム永遠 就活目前で敵前逃亡
苦しいふりして デスメタル 聴くお前に ディス hum?

俺らのリアルそこになし底無し 気づく前に キノコ食ってるダサダサ 朝マック食う俺はクール
嘘を現実視 欺瞞にまみれたお前らに照射する landscape八王子から 拡声器で殲滅する現代社会
信じるのは簡単な手法 すぐにドロップアウトする雑魚どもに用意はいらねぇ SHA使徒
Black & Whiteで武装する ふざけた色吐き出し 機関銃で現実照射 空間射撃 Yeah
SIN 真実だけを手に コンピューターテクノロジー サイエントロジートム・クルーズ 文武両道
後ろ見て 見失う21世紀 10年目 ナニが変わった たすきがけ練り歩く大学構内 職質確実 積んだ人生
人間失格 むしろ 学生結婚 もくろみ 婚活最前線 同期は就活最前線 俺は 自慰行為最前線
ワンダーランド 見つけに 日常から逃走 侵入する 電脳世界 出口なし
SHA八王子から 東京番外地から 一斉蜂起 人民革命 シーサイド方面 ベイエリアから 内陸部まで
まっていろ やってやるぜ テメエらは 傍観して待っていろ 俺らの出番
SHASINBU写真部

梶井基次郎「蒼穹」

ちょっとした予習気分で梶井基次郎の「蒼穹」を読んだ。梶井基次郎は昭和の小説家で一番有名な小説は「檸檬」だ。日本橋の丸善に檸檬をおいて帰るだけの物語。それに無闇に感動してしまう。静謐で単調な文体で主に語られる内容は風景と同化する自分自身で、彼らにとっていつもの場所はいつのまにか全く別の場所になっている。その変化は極めてアナログ的になされる。そこに僕らは感動している。

「蒼穹」は本当に短い短編で物語も「檸檬」のように、主人公が田舎の村で雲を見ているだけの、こう書くと全く盛り上がりもない、話だ。しかしながら、主人公の感情とあまりにも関係付けられすぎている風景はたえずそのイメージを変化させ、地表を遠く見下ろしている。雲はその伸びやかなイメージから、孤独で不吉なイメージへと落とし込まれる。
そして僕はこの小説を読みながら、映像を頭に浮かべこのような感覚の世界へと没頭しつつ、この感覚に対して限りない欲望を感ずる所存であります。

それは一方からの尽きない生成とともにゆっくり旋回していた。また一方では捲きあがって行ったへりが絶えず青空のなかへ消え込むのだった。こうした雲の変化ほど見る人の心に言い知れぬ深い感情をび起こすものはない。その変化を見極めようとする眼はいつもその尽きない生成と消滅のなかへおぼれ込んでしまい、ただそればかりを繰り返しているうちに、不思議な恐怖に似た感情がだんだん胸へたかまって来る。その感情はのどを 詰らせるようになって来、身体からは平衝の感じがだんだん失われて来、もしそんな状態が長く続けば、そのある極点から、自分の身体は奈落のようなもののな かへ落ちてゆくのではないかと思われる。それも花火に仕掛けられた紙人形のように、身体のあらゆる部分から力を失って。――

ぜひ読んでみてくだされ。それにしても梶井基次郎は理系だったんだよ。確か京都大学の。
それから東大の英文科にいったんだ。
その経歴は、彼の文体と描写に影響与えているのでしょうかね。

引用:http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/430_19796.html