2009年8月13日木曜日

夏といえば映画

 2,3日止まっていた電気の送電が今さっき再開されたので夏に見たい映画を箇条書きにしてまとめます。

 僕らの七日間戦争(菅原比呂志)
 赤い髪の女(神代辰巳)
 ロシュフォールの恋人たち(ジャック・ドゥミ)
 スタンド・バイ・ミー(ロブ・ライナー)
 8月のクリスマス(ホ・ジノ)
 ションベンライダー(相米慎二)
 イージーライダー(デニス・ホッパー)
 ヒポクラテスたち(大森一樹)
 断絶(モンテ・ヘルマン)
 スカーフェイス(ブライアン・デ・パルマ)
 チャイナ・タウン(ロマン・ポランスキー)
 悪魔のいけにえ(トビー・フーパー)
 女は女である(ジャン・リュック・ゴダール)
 スケアクロウ(ジェリー・シャッツバーグ)
 THX-1138(ジョージ・ルーカス)
 一瞬の夢(ジャ・ジャンクー)

 夏になると無意味に外へ出たくなるものだが、それは僕らが「菊次郎の夏」やら「スタンドバイミー」やら「僕らの七日間戦争」を見ているからなのかもしれない。たいてい暑くて汗がどばーっと出てすぐに近場のドトールに緊急避難するのだが。
個人的に少年時代の夏の思い出など皆無で人生を一変させるような事件に出会ったことなどないけれど、たとえば「ションベンライダー」のワクワク感は確かに小学生の僕にもあった。都市郊外の住宅地はむやみに人を郷愁へと駆り立てる。僕が初めて劇場で観た映画は宮崎駿の「耳をすませば」だったが、当時6歳くらいだった僕は「耳をすませば」の風景を見て妙に懐かしさを感じた。最近見た「ヒポクラテスたち」にもその懐かしさを感じた。主人公たちは国家試験を控える医者の卵たちなので、耳すまや「ションベンライダー」とは違い、今現在の僕の年齢と近いのであるが、あの映像の質感・ざらつきがなぜか妙に懐かしいのだ。
 夏になると様々な人が旅行に行く。僕はたいてい聞き役なのだが。外国に行ったり、避暑地に行ったり。旅行に行くといろいろな出来事がある。友達は僕にそんな小話をぺらぺらとしゃべり、僕は適当に相槌を打つ。金はないが時間のある私はクーラーのきいた部屋でロードムーヴィーを見る。アメリカを放浪するジーン・ハックマンやらジョン・ウェイン、疾走するウォーレン・オーツと自分を重ねて、いつか俺もルート66を疾走したいものだと空想にふける。
 夏休みになると全く人と会う機会がない。アーさびしいな、と思うとTUTAYAで恋愛映画を借りる。「8月のクリスマス」で僕はハン・ソッキュになって彼女にアイスクリームをおごったりするのです。そんなうちに「THX-1138」では、白い部屋で丸坊主の彼女と情事に耽ったりする。「一瞬の夢」で疎外感を感じる。「赤い髪の女」で石橋漣司になって宮下順子と日がな一日情事に耽る。
 そんな異常な日々に疲れると今度は飛びぬけて明るいミュージカルが僕を待っているわけです。ロシュフォールの恋人たちで僕はふたご座の姉妹になって踊り歌い、恋する。俺はミシェル・ピコリの方がいいな禿げてるけどと、テレビに向かって発言する。独り言が多くなりますね。
いや、アンナ・カリーナでもいいよ全然。「女は女である」だよ。僕は男だけどこの映画見てる時は純粋に女だよ。アンナ・カリーナだよ。2人の男、どっちを取るの?ワタクシベルモンドはいやよ、唇が厚いから。


2009年8月3日月曜日

 駅のホームで電車を待っていると線路が俺を呼んでいるような気がして気がつくと黄色い線をはみ出して線路を凝視している。それと同じようなことはたくさんある。夜、家に帰る途中、東京都道158号小山乞田線を走る車の光が邪魔をして昔の失敗を思い出す。それは家でネットをしている時でも同じで、ディスプレイの前になぜか置いてある画鋲が目に入り、この画鋲で目を付いたら痛いだろうな、と意味もなく煩悶してしまう。
 さっき会ったひとは今何をしているだろうか、といろいろ想像していると僕はいつの間にかおじいさんになって孫の世話をしている夢を見ている。一番最悪な夢は例えば僕が誰かになって、そいつがまた別の誰かと情事に耽っているようなそれであり、そのような夢は往々にして覚醒した後も僕を悩ませるのだ。
 見たままの現実を僕が見るのは大変難しいように思われる。でも誰かにとっての現実は僕にとって見たままの現実であるように思う。
 岡崎京子の「リバーズエッジ」において印象的なのは風景のカットで、それはいつでも遠くの風景だ。
 リカのキス。盛り上がりも下がりもなくてひたすらに単調な、でも中毒性のあるトラックがもう本当にやる気のない声と重なると1995年にタイムスリップした気分になって、それってたぶんスチャダラパーの「サマージャム95」なんじゃないかって勘ぐるとその実プロデュースはクボタタケシで、幸福感でいっぱいになるとタバコが吸いたくなったのでシケモクをすうがまずい、やる気がなくなるとキミドリの自己嫌悪をitunesが選んでくれる。誰も気がつかない音楽というのはなくて、いつも誰かが僕が気がつく前に気が付いていて、だから知らない音楽はないのです。でも大体の音楽がトイレットペーパーのようにことごとく同じ目的のためのものであり、消費されていく。一年前の音楽とは何だったか。そもそも一年前の音楽なんて存在するのか。誰かが怒っている。もう我慢の限界だ。