2009年6月28日日曜日

R.I.P M.J



今日はずっと寝てたよ。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

 ぼくらはオタクなのでまた初日に歌舞伎町で1時間半ならんでみたのだけども、ものすごくおもしろかったのでみんなもみたらいいとおもう。

 スクリーンで観るなんていう行為は今やただの儀式で、ましてやそれだけで得られる感動などというものは果して意味の無い物なのかもしれません。映画が自分の内面に変質する瞬間はどうして生まれるのか?とか、その情動はどこからやってくるのか?とか、批評はただ映画という存在の素晴らしさを語るだけで僕らには何も教えてくれないし。でもそんな所に確かに、奇跡はあるんです。

 ほら、明々後日は映画の日じゃないですか。たまになら1日くらい授業をさぼって映画を観に行くのも良いと思うよ。

2009年6月21日日曜日

トレイシー・ソーン、ES、N.W.W.を聴く会を開きます。

6/22の18:00から、部室で「第二回 良い音楽を聴く会」を開きます。
今回はN.W.WとESを中心に聞きたい。さっき決めました。
ほかにトレイシー・ソーンあたりを聞きたい。

2009年6月12日金曜日

宮崎美子

 今日もダラダラしていたら明日になっていた。一限はフランス語だ。でもいかない。先週はじめて出たのだが、先生がすごくこわかったのでもう出ない。そんな勝手なことができるような単位数ではないが、もう駄目だ。

宮崎美子が凄すぎて、もう立てない。震える。
作曲は鈴木慶一

2009年6月7日日曜日

imoutoid

 明日「ヴィデオを待ちながら」を見に行こうと思ってググったら、imdkmが書いているブログが引っ掛かり、そこでimoutoidについて知った。カッコ良い。いいな。と思ってググったら死んでた。しかも数日前に。人の死というものは不思議なもので、全く今まで知らなかったしなんとなく調べてみただけの僕をこんなにも空虚にさせる。

DE DE MOUSE好きは必聴だ。
ほかの音源もなんだか偲ぶような形でネットに上がっているのでぜひ聞いてみてほしい。

 そうして深夜から夜明けまでずっとimoutoidの曲を聴いていると、何だか本当に残念で泣きそうになってくるのだがそれは結局映画で泣くのと同じで何ら実態のない悲しさだったりする。いろいろ思った。

 例えば現実とネットっていう二つの世界があるとしたら、imoutoidはものすごくネットっていう感じがする。

そうしてimoutoid追悼記事において散見されるのはR.I.Pという言葉だ。何のことかわからない。ピチカートファイブのアルバムのタイトルかな?その実、意味的にはそうでrest in peaceという言葉らしい。

聞いていて本当に楽しさしか感じ得ず、それはワタクシの耳の悪さもあるのかもしれないが、そんな曲を作った人が18で死んでしまったとは思えない。これから日本の音楽を面白くしてくれる人が死んだ。


 そうしてまた散見されるのは、「天才が死んで俺がまだ生きているなんて…」このネガティブさ。もはやネットは世紀末的様相を呈してきているわけだ。ワタクシはまだ何の挫折もしたことのない人間で、たとえばゼミ形式の授業で委縮してしまうような小心者のカッコ悪い男だが、だからこそそのような絶望的心象を彼らと共有できる(と勝手に信じている)のではないか。自分自身の存在の卑小さと比べてしまう。imoutoidはその存在を究極的に近しいもの(たとえば現実の友人よりも)として感じられるからこそ、「自分がまだ生きている」ということに対して奇妙な引け目を感じてしまう。

 サヨナラだけが人生だ。 井伏鱒二の名訳が切なさを補完する。

2009年6月4日木曜日

日本の人

 やはり今日もいまだに起きている・・・。本当は全然寝てもよかった。
うわー、電気ショック!ねるねる地獄と名づけよう。寝たい時に寝れず、寝たくないときに眠ってしまう病気だ。大変恐ろしい。発症すると留年する。

 最近(僕の場合、非常に"最近"のスパンが短い)お勧めしたいアルバム。

Helios/EINGYA
 大変聴きやすい。アンビエント?WEGみたいな音。アコースティックギター、電子音、生ピアノ。オリジナリティはないが、フォロワー的な良さがある。BADFINGER、モンキーズ的な良さだ。
2006年に発売されている。ずいぶん前の曲だが僕は最近知った。
 知っている人は割と多いのではないか?日本人が好みそうな郷愁を誘う奇麗な音が続くからだ。マトリョーシカとかとも似ている気がする。
ただ感動的な音ではない。B.J.WARDのような、「これってマジで奇跡ですよ。」っていう感覚はない。涙してしまう過剰なセンチメンタリズムもない。そこがフォロワーの限界でもありいいところでもある。

SEAWORTHY / 1897
 オーストラリア在住の Cameron Webb によるプロジェクト「Seaworthy」の2ndアルバム。
1897年に建てられ、1990年の湾岸戦争まで現役で使われていたオーストラリア海軍の弾薬庫で録音を行った作品。ミニマルでメランコリック。ザ・作業用BGMだ。でも普通に聞く分にも全然いい。フィールドレコーディングなんだけど、ポスプロでかなりいじってるから全然普通の音楽。かっこいいです。

2009年6月2日火曜日

6月の6時頃

 さっきから、なぜ俺は寝なかったのだろうと考えています。何もやることないのに。
例えば、生物は自分のからだ(指など)をより良く作るときに細胞が自殺するそうです。アポトーシスと呼ばれるのですが、僕が目的も意思もなく夜更かししてしまうのはまさにアポトーシスと同じだ。
 より良く生きるためなんだ。無意識に僕は動かされている。だからバイトもしないし公共料金も払わないし授業にも出ないのではないか?だが僕の人生のアポトーシスにおいて最大の欠点は「人に迷惑をかけることをなんとも思ってない」ってことです。その点においてこのもはや「言い訳、屁理屈、ボケナス、クソバカタレ」としか言いようのない人生のアポトーシスは彼方へと消えてゆくのでした。(稲垣足穂)



 孤絶は空気のなかに溶け込んでしまつてゐるやうだ。眼のなかに塵が入つて睫毛に涙がたまつてゐたお前……。(・・・)……僕はある朝、歯の夢をみてゐた。夢の なかで、死んだお前が現れて来た。
「どこが痛いの」
 と、お前は指さきで無造作に僕の歯をくるりと撫でた。その指の感触で目がさめ、僕の歯の痛みはとれてゐたのだ。
原民喜「心願の国」

 こんな鎮痛で重々しく救いのない話を、俺はAstrud Gilbertoの爽やかな音楽に耳を傾けながら読んでいた。センチメンタル・ジャーニー。俺はまだ16だった。



 いいえ、ジェローム。いいえ、わたしたちが努力を傾けるのは、それは、あの将来のむくいといったようなものを思ってではないんですの。わたしたちの愛が求めているのは、将来のむくいといったようなものを思ってではないんですの。自らの辛苦に対する報酬といったような考えは、よき魂にとって、それを傷つけるところのものなんですの、徳といったようなものにしても、それは、そうした魂にとっての装飾物ではありませんの。それは、そうした魂の美しさの、形そのものにほかならないんですの。
アンドレ・ジイド「狭き門」

 本当に理解が不能であった。等しく理解不能なMerzbowを聴きながら「やっぱり大学の近くに住んだほうがよかったな」と思っていた。俺はいつも調布の「Monaco」というゲーセンに入り浸り、帰りに必ず北口シャノワールでアメリカンコーヒーを飲むのを良しとしていた。ナインティーンだった。



岡村靖幸

 岡村靖幸の天才をどのように説明したらよいだろうか。とにかく浮かんでくるキーワードは「変態」しかない。ただこの言葉は「岡村靖幸を聞くこと」の恥ずかしさを端的に表している。岡村靖幸はとにかくイタいのだ。しかしイタいからこそ僕らは岡村靖幸を聞くのをやめることはできない。

キミドリ

 
クボタタケシ、石黒景太(KURO-OVI)、アオキマコトの3人によるヒップホップ・ユニット。ファーストアルバムは’93にリリースされた。ヒップ・ホップはとかくその脈絡において語られることが多い。ただその脈絡から外れたところでキミドリのカッコよさが損なわれることはない。岡村靖幸においてもあるように、このユニットのリリックもイタい。それは早川義夫から連綿と続く「かっこいいことはなんてかっこわるいんだろう」的なカッコ悪さのカッコ良さではなく、ただ単にかっこ悪いだけだ。いやむしろカッコ良さのカッコ悪さのカッコ良さだ。一周回ったのだ。結局だから、受け手がどれだけ捻くれてるのかってことなのかもしれない。イタいからこそ僕らはキミドリを聞くのをやめることはできない。

WEG(World's End Girlfriend) 


11 名前: TR-774 [sage] 投稿日: 2009/03/01(日) 01:12:39 ID:???
WEGスレの歴史

大まかな流れはスレが出来てWEGについて仲良く話してたら
1st持ってないやつと持ってる奴の間で格差が生じ、
1st以外糞って意見が出てきて、他のアルバムを貶めるまでに至った。
その流れに切れた奴らが「こんなエロゲくせえ音楽恥ずかしくて聴けたものじゃない」って反論したら
エロゲ臭いって言うのが妙に当を得ていたのか、一部が真性だったのか、Clannadを語り始めた。
そこでみんなドン引いたけれど、ネタ臭いレスを投稿するやつが出始めて
一気に「WEG=エロゲ」っていうのが定着して今に至る。
sky short story e.p.」は名作

2009年6月1日月曜日

最近写真部ばかりです。

Bill Brandt<イギリスの巨匠>

 最近は映画はあまり見ないで、写真ばかり気にしている。やはりCONTAX G1を買ったからだろうか。
もうすぐ写真展があるからだろうか。いろいろ当てはまりそうだが、最大の原因はビル・ブラントという写真家の存在を知ってしまったからだと思う。
 何故だか知らないが、この写真、「Aget,the pioneer」に掲載されていた、を見た時にワタクシはもう圧倒されていたのです。Bill Brandt。ヌード、シュルレアリスム、マン・レイ。写真は瞬間ではなく空間であるのだ、と強く感じるのであった。映画でこんな構図があったとして僕は こんなにもその瞬間に感動しただろうか。写真だからこそ僕はこんなにも何かにおいて感動しているのであって、やはり映画は単に構図が彩るのではなく、動き において映画たりえるのだ。  ビル・ブラントは優れた写真家であると同時にプリントづくりの巨匠でもあった。

「私は題材を構成している要素を強調することによって題材のもつ雰囲気を伝えようと努める」

 題材を構成している要素―――つまり被写体の何を、どこを強調するかがその雰囲気を伝えることになるのだ、とビル・ブラントは語っている。この言葉は我々が何によって写真を見るかに対してかなり有益な示唆を与えはしないか。
 つまるところ、黒と白だ。どこに光が当たりどこが影になっているか、そう言ってるんじゃないのか?
プンクトゥムとか持ち出すまでもなく僕らはすでに光をとらえていたわけだ。写真において、光は隠れた神だ。

もし不分明でなかったならば、人間は自分の堕落に気付かなかったであろう。
もし光がなかったならば、人間は救いを望まなかったであろう。
パスカル「パンセ」

 写真は信仰だ。プラトンが国家において語ったように、芸術がイデアの模倣であるとしたら、写真は正に言葉通りの「模倣」だ。ならば、現に写真に感動しているワタクシはなにをもって感動しているのか。それはもはや信仰そのものではないのか。
http://www.masters-of-photography.com/B/brandt/brandt.html