我がマスタピースである「断絶」「コックファイター」を監督した巨匠モンテ・ヘルマンが新作を撮るらしいので、今から楽しみでしょうがないです。
http://www.nytimes.com/2010/05/16/movies/16hellman.html
モンテ・ヘルマンの映画で最も有名な作品は、[断絶]であろう。2台の車がワシントンDCまで競争する、ただそれだけの、極めて単純なストーリー。だからこそ、我々は路上で孤独にひた走る男の表情を注視するほかない。「ヴァニシング・ポイント」「イージーライダー」など、「断絶」が撮影された時代には車映画は割とよくとられていた。その中にあって正しくハードコアな映画だ。ロードと空が世界を二分してその中間を車はひた走る。ジャック・ケルアックの「路上」のような狂騒も、「ヴァニシングポイント」のヒロイズムもすべて削ぎ落としいったい「断絶」の物語では何が語られているのか。それは、映画でなければ成り立たない物語で、つまり映画自体を物語っている。そういえばあいつ、「イタリア旅行」を撮っていた頃のロッセリーニはこんなふうに言ってなかったか?それともJLGだったっけ?「映画は男と女と車さえあれば完成する」って。JLGの「勝手にしやがれ」も、「フォンス、アルフォンス」だし、イエジィ・スコリモフスキの「出発」も車なんですよ。
「コックファイター」も同じく何も話さない映画だ。主人公がまず話さないし。何よりも物語は観客を無視している。ニワトリの喧嘩を誰が見るのだ。しかし、我々はまずモンテ・ヘルマンだから見ざるを得ないのだ。そして、ネストール・アルメンドロスだからこそ。言葉が内実を担当するとすれば、主人公はなんの内実も示さない必要のない人間だが、映画に関する限りその状態は突破することが出来る。フィルムに焼き付けられた像はそれ自体が言葉だ。複数の映像の集合が俺達の頭の中でキュビズム的な様相を呈し、そして考えの中で物語は形づくられる。映像が文なのではなく、映像によって我々が言葉と言葉を結合させ文を、物語を作り出しているのだ。理解だ。もっとも重要なのは物語を理解することではなく、映像と映像のつながりを、映画を理解することだ。
「映画は物語る」という至極基本的なことを、あまりにも無反省に受け入れておられる人間が多すぎる。
いえーい俺もその一人です。
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