高校生の時だった、園子温の「自転車吐息」を見たのは。よくいるような田舎の高校生だった僕は映画を見たあと非常にムカムカしながら夏の国道四号線をそれを返すためにTUTAYAまで疾走し、それから友達に「園子温の映画見たけどすげーつまんなかった」という旨のメールを一方的に送りつけた。それは完全に嫉妬で、それ以来俺は不透明な恐怖感を抱きながらなかば挑戦するようにして園子温の映画を見る。
画面には22歳の園子温が。そして24年後、20歳の俺はフィルムセンター小ホールの客席に座ってそれを見ている。はたして見るという行為はまさしく時を超えていたのだが、そのとき僕は一方的に見つめられていたのだった。そうして遊戯的な「今」が、目の前に繰り広げられている。その時俺は誰だったんだ?
断片のイメージが俺を孕んでいる、と言えばいいのだろうか。とにかく僕はある瞬間完全に奇声をあげる園子温で、8日間風呂に入ってない園子温であった。それが虚構であろうと、自分自身の卑小さをどこまでも自己反省していくような、そんな悲しさで満ちている。
でも
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